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法話「 穀雨 ーかぎりあるモノ社会をみるー 」
 

くろぐろと 土の匂いの 穀雨かな     針ケ谷里三

春になると花冷えといって、いったんしまいかけたストーブを引っぱり出すことがしばしばあります。風邪やら花粉症やらにわずらわされておだやかな春にも小さなトラブルはつきものです。

春はもともと「穀雨」のめぐみに出会う季節だといわれてきました。穀雨は、百穀の種の生長を助け、花芽・木の芽を出させる雨という意味です。田畑をうるおして苗木の活着や種蒔きには好まれる時期です。この雨が続くと菜種梅雨とよび、さらに長びいて木の芽梅雨とうとまれることもあります。

高度経済成長のおかげで、車社会が訪れ、道路も整備されて、OA機器や家庭の電化製品をはじめ、身の回りには娯楽のかずかずがふえました。戦後の荒廃時期とはくらべものにならない繁栄ぶりです。お菓子のように美しい建築が建ち並び、人々はデザインブックからぬけだしてきたようにかわいい服装に身をつつんでいます。人々のこころは、その美しさのように、みごとな生長をとげているのでしょうか。

日常的になってきた交通事故は、おたがいの災難であるにも関わらず相手の非を責めることから始まります。家庭や学校の教育は人格の向上よりは「モノのリクツ」を優先していないでしょうか。便利社会をつくりあげてきたはづのモノとお金のバランスだって、深刻な構造不況とともに資源不足や環境汚染をもまきこんで地球全体を住み難くしているとすでに承知してきました。

いづれも神仏のはからいによってなりたっている自然のなりわいなのに、どこかでお金が糸をひいています。お金は人間がつくりだしたものです。お金は社会生活になくてはならないものですが、これほど人間を蝕んでいくものもありません。

つまるところはお金をつかう人間の「こころ」がよくないと、地球も世の中も人間関係も、うまくいかないリクツはすっかり勉強してきたはづです。リクツどおりにいかないというリクツも承知しているように、望み通りのお天候をのぞむことはムリというものです。ときには思いがけない花冷えの日も、少々長引く不況の雨が降っても許していただけない人間社会でしょうか。

裕福社会を望むことよりも、いっさいお金をつかわない社会づくりを描いてみてはいかがでしょうか。必要なモノだけの<ブツブツ交換>の試練を受けながら、天地自然の<めぐみにいきる>心社会が、人間ともども生物の極楽浄土と納得できないでしょうか。

百花爛漫の花咲く春にも舞台裏はあるもので、観察すれば自然のなりわいはかくのごとしとうなづくことがあるはづです。リクツはえてして「ソンかトク」かのモノサシではかっていることがおおいのです。多くを得ようとすれば、失うものも多いもので、そとに向いている目をうちにも向けておかないと、とりかえしのつかないことになりそうですバイ。

音たてて 穀雨の風呂の 溢れおり     西村 牽牛

 
 
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