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法話「 春霖(しゅんりん) 」
 

春の長雨を春霖といいます。木の芽梅雨とか春雨(はるさめ)とも呼びます。

冬の寒さを乗りこえて一雨ごとに若芽が育っていくための春の恵みです。

春の雨 一角獣の 角のびる   保科その子

一角獣は犀(サイ)くらいしか見あたりませんが、あの角が少しづつのびていくさまを想像したら、春の雨の木々の成長をうながす力強さがよくあらわれています。

子ども達の生長も、実にそのとおりです。私には三人の子どもがいて、親もとを離れたらどうするだろうかと心配していましたが、かえってのびのびとたくましく育っています。きっと人には言えない苦労もあるに違いありませんが、おそらくそれを跳ね返すだけの力を蓄えていたのでしょう。実にありがたいことです。

このごろ、ある講演会で職場の人間関係、夫婦関、妊娠ひいては育児ノイローゼに悩まれている若いお母さんが増えていることを話されました。教育思想が混乱したまま所得倍増最盛期に生まれた人たちで、ほとんどが人間関係がうまくやれない悩みだそうです。遅かれ早かれお金の力に育てられてきた時代ですから、お金のかからないことにはめっぽう弱いというおはなしでした。

そういう一面をもっているのは事実でしょう。お金があってもなくても、私たちは教えられ育てられてきたのです。因果関係は少し違うところにあると私は考えます。身に降り注ぐ雨が嫌いなのです。指摘を受ける・教えられる・責任の重みがかかってくるそんなことがいやだとインプットれてしまったのです。人間が最高の生き物で、自分はそれ以上に幸せになるべきと受取ました。「畏れ」をもたずに育ってきた人たちに、ひとすじ縄ではいかない「おそれおおきこと」が降りそそいできたのです。「畏れ」とは天地宇宙の法則つまりは宗教のことです。先祖伝来の宗教を先祖が大事にしたように、やわらかい心身に染み込ませる努力を怠ったからにほかなりません。

下品やさしく 上品つよし 芽木の雨  秋山牧車

いつ降ったとも降っているともわからないようないやらしい雨、そして厳しくさとすように降る絵に描いたような雨も木の芽の成長をうながすには欠かせません。その雨に傘や覆いをかけて濡れさせないように配慮をしたとするならば、天地の法則を知らない盲目の愛と言わざるをえません。

人と人とのかかわりを『下品やさしく』、神仏の教え(天地自然の法則)を『上品つよし』と濡れてみれば、恵みの雨がみちみちています。人間に雨は必要です。いつでも遅くはありません。「春雨じゃ濡れていこう」と、月形半平太しましょう。

 

 

 

 
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